No.0046 ひとやすみ
「仏教の今」
例えば、仏教をお話しましょう。
仏教においては教祖たる仏陀(ブッダ、ゴータマ・シッダールタ)が身近にいれば、その人(人、先生、先輩、先達)から学ぶことになります。ところが、死後数百年も過ぎてしまえば、残るのは書物、経典だけです。そこで僧侶たる修行者は書物、経典を学びます。そこで第一の壁があります。「読んでもわからない」のです。第1段階ですでにつまずいています。
問題は更に続きます。わからないままある先達が実行に移します。当然良い結果なんて得られません。だって「わからない」ことをやっているからです。でもですよこの先達の行動が数百年も続けば、立派な修行となります。
問題は更に広がります。わからないからある先輩が解説書を作ります。わからないまま。その解説書も数百年経てば、立派な経典です。
しかもその先輩、先達が宗教的に高位の僧侶であれば、それはもう致命的です。間違っているとは口が避けても言えません。(たぶん)
結局仏教は千数百年、「わからない」を学び、「わからない」を実行し、思わしくない結果も「わからない」で過ごしていると言えます。
でも唯一すごいところがあります。「わからない」とはいえ千数百年変わらず、(たぶん)忠実に経典、修行を保存しています。百年に一人、いや千年に一人でもいい、「わかる」人が現れれば、その価値は計り知れない。長い長いお話です。
話はどんどんそれていく(笑)